行ったら、やっぱり、面白かった!NIPPON 再発見紀行

角倉了以の偉業に驚きつつ
いざ、保津川下り

その日の夕方、渡月小橋の南端近くにある「星のや 京都」の上り桟橋から船に乗って宿についた私は、保津川を見下ろす部屋に入り、角倉了以についてあれこれ調べた。

了以は室町時代末期、1554年に嵯峨で生まれている。先祖は足利将軍家に医者として仕え、天龍寺の僧たちのかかりつけでもあった。その一方、医者として得た財で土倉(金融業)と造り酒屋を営み、屋号を角倉(本姓は吉田)と称した。了以は医者ではなかったが、医家を継いだ弟は、本草学の第一人者として徳川家康の側近となった。

その家康が江戸幕府を開いた1603年にはじめた安南国(ベトナム)との朱印船貿易の一団に、了以の角倉船もあった。こうして商人としての才覚を発揮していた了以は、陸路で京まで運ばれている丹波国の材木を水運によって運べるようにするため、1605年、保津川の開削を幕府に上申。すぐに許可が下りると翌年、私財を投じて長男の素庵とともに着工した。山間部をうねるように蛇行し、筏も通さない岩がひしめく川の開削。いったいどんな技術を用いたのかは不明ながら、了以は自らも現場に立って工事を進め、わずか5ヵ月で完成させてみせた。

私は資料から目を離すと長い息をはき、窓辺に移ってしばらく川の流れをながめた。


翌朝9時7分、私たちは嵯峨駅からトロッコ列車に乗りこんだ。乗客は日本人よりも中国、台湾、香港から来た観光客の方が多かった。トロッコらしい細かな左右の揺れを体感しながら最初のトンネルを通過してほどなく、列車がゆっくりと停まった。何事かと窓の外に目をやると、私たちが宿泊している「星のや 京都」が見えた。「川の反対側、木々の中に見えるのが星のやさんです」と車内アナウンスが流れる。正面に見えたのは、私が泊まった部屋だった。

20分ほどで亀岡駅に着いた私たちはタクシーで保津川下り乗船場に移動し、10時過ぎ、船に乗りこんだ。船頭はよく日に焼けた3人。舳先で竿、その手前右側で櫂、そして後ろで舵を操るのだが、左手に請田神社が見えてくるまでは船の進行はなだらかだった。一番前に座る私は、川岸にたたずむアオサギを写真に収めたり、背後にある明智光秀が治めた亀岡城を遠望したりして川風に吹かれた。

左上)嵯峨野トロッコ列車には1車両だけ「ザ・リッチ」というオープン車両が。嵐峡の風景が存分に楽しめた。右上)保津川下りの始点・丹波亀岡の風景。観光用の馬車がのどかに走る。左下)満員の乗客と向かい合い櫂を漕ぐ。右下)用途によってさまざまな舟を見る事のできる保津川・大堰川。夜に観賞した鵜飼船は細長く素早く川面を動く

しかし、請田神社の下をゆるやかに左に曲がり、乗船場から約3km地点にある宮の下の瀬を過ぎると俄然、川の流れが激しくなった。左右の崖が聳えるように迫り、所々で川幅がぎゅっと狭くなる。竿は横になったまま岩を押しつづけ、櫂はひと掻きごとにギイギイと鳴った。烏帽子岩、手鏡によく似た鏡岩、金岐の瀬……左右だけでなく上下の揺れが尻に響く。2mほどの小鮎の滝を左にながめて前方を見上げると、JR山陰本線の鉄橋が見える。両岸の崖はさらに高くなり、すっと太陽が雲に隠れるたび、あたりは暗くなった。船はギイギイの音とともにさらに峡谷の中を下り、角倉了以の時代から突いてきた竿の跡が3カ所残る岩を過ぎて保津峡へと直進。乗船場から約13km地点の落合をゆっくりと右に曲がると、ゆるやかに進みはじめた。残るは渡月橋までの穏やかな川旅である。
「やってみる?」

取材を兼ねてずっと話をしていた船頭が声をかけてきた。私はしおらしく躊躇したが、櫂を手に持つ船頭は、ここまでくれば危なくないという。ならばと舳先に移動し、私は見てきたとおりに両手で櫂を握り、下腹に力をこめて前から後ろへと引きこんだ。

ぺちゃっと水が跳ねた。へなちょこにふさわしい音だったが、私はかまわず2度3度と櫂を動かしつづけた。ひと息ついて顔を上げると、心優しい他の乗客たちは、満面の笑みで拍手を送ってくれたのだった。

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